2015年11月18日水曜日

フラットな音色のヘッドホンとは?

ヘッドホンのレビューばかりやっていても芸が無いので、今回はちょっとヘッドホンの評価において重要なポイントをまとめておきたいと思います。

ヘッドホンに限らず、オーディオ機器のレビューを読んでいると、「フラット」な音色といった表現がよく使われています。私自身も例に漏れず頻繁に使うフレーズですが、では実際に「フラット」というのはどういった意味なのでしょうか。

完璧なヘッドホンなら、測定上フラットなはず?


DAPなどのオーディオプレーヤーやヘッドホンアンプにおいては、フラットとはつまり「低音から高音まで特定の周波数帯を強調せず、入力された音楽に対して忠実に寸分狂わず出力してくれる」、という解釈が一般的です。

アンプというのは信号を増幅するのが役目ですので、入力された音楽信号が全帯域で等しく増幅されているか、オーディオ測定器を使ってテストできます。こういったテストには、一般的にオーディオプレシジョン社(AP)などの測定用アナライザを使うのが主流で、大手オーディオ雑誌などでも製品レビューにこのようなテスト機器を使っています。

↓Audio Precision APx555
http://www.cornestech.co.jp/ap/aa_product1.html

アンプやDAPのテストはとても正確に実現できます

では、家庭で音楽を聴くためのスピーカーの場合はどうでしょうか。この場合フラットなテスト信号を再生して、リスナーのいるべき位置に正確な測定用マイクを配置することにより、フラットな信号が正確に出音されているかテストできます。

今聴いているスピーカーはいわゆる「フラット」な特性なのでしょうか?

リスニングポジションに測定用マイクを配置して測定できます

スピーカーの性能を評価するのであれば、テストに使うオーディオアンプは特性の優れたものでなければいけませんし、リスニングルームの壁や天井からの反響が無い、いわゆる「無響室」でテストを実施するのが一般的です。マイクもカラオケマイクなどではなく、専用の高価な測定用製品を使う必要があります。たとえばDPAのモデル4007なんかは測定によく使われているマイクです。


↓ DPA4007 測定用無指向性マイク
http://www.hibino-intersound.co.jp/dpa_microphones/4234.html

フラットな特性のスピーカーであれば、「実際のアーティストがそこで演奏しているのと区別がつかない」、というのが理想的な目標ですが、一般的な家庭のリスニングルームでは反響がありますし、スピーカーの特性も方向や角度などによって変化するため、スピーカーの配置場所やリスニングポジション、壁や天井、そしてソファーの材質などによって音楽の聴こえ方は違ってきます。たとえば部屋の左に窓ガラス、右に本棚があったら、それぞれの反響が異なるのは明白です。

ヘッドホンの周波数特性

ではヘッドホンの場合はどうでしょうか?

例えば自分の目の前のステージで演奏しているギタリストを、高性能マイクで録音したとします。その演奏をそのまま「フラット」な特性をもったイヤホンやヘッドホンを使って再生した場合、本来の生演奏とは違って聴こえてしまいます。ギタリストが自分の耳の中に入って演奏しているような状態ですので、これでは正確とはいえません。

スピーカーとヘッドホンの違い

目の前で演奏された音楽が自分の鼓膜に到達するまでには、ギターの音は自分の顔や外耳などの障害物を通過しますし、耳穴の中というのも「長さ3cmのストローみたいなチューブ」なので、それらを経て鼓膜にたどり着いたギターの音は共鳴や吸収など、色々な変化が起こっています。つまり、一種のフィルターを通った状態とも言えます。

では実際に、本物のギター演奏は、自分の鼓膜ではどのように聴こえているのでしょうか?

こういった実験のために、人間の頭の形をしたマネキンの中にマイクを埋め込んだ「ダミーヘッド」という製品が販売されています。

ダミーヘッドのメーカーは複数ありますし、素材や耳穴の形状、内蔵マイクの性能などで結果も変わってくるのですが、録音業界の規格で指定されていたり、スタンダードとして推薦されているダミーヘッドがいくつかあります。

たとえばドイツのノイマン KU-100なんかは30年前から多くのヘッドホンメーカーで活用されていますので、メーカーの開発ラボ写真などで見る機会が多いです。ロボット的な表情なのに、耳だけがリアルに再現されているので可笑しいですね。


↓ ノイマン KU-100 ダミーヘッド
https://www.neumann.com/?lang=en&id=current_microphones&cid=ku100_description

また、ダミーヘッドを使わずに、実際の人間の耳穴の中に超小型マイクを入れて音の測定をするといった方法もあります。色々な考え方がありますが、人間の体や耳の形状は人それぞれ、千差万別なので、どの手法が一番正しいかということを論議するのは無意味なのかもしれません。

フリーフィールドカーブ

例えば自分の前方にあるスピーカーから出ているフラットな音が、自分の耳穴内にあるマイクでどのように聴こえているのかというと、おおよそ下記のグラフのようになります。ご覧のとおり全然フラットではなく、たとえば3kHz付近が非常に強調されて聴こえます。これは人間の耳穴がチューブ状なので、その中で音が共振を起こすことにより発生します。

無響室でダミーヘッドを使った測定(イメージ)

人間の生活の中では、超低音や超高音よりも、「人の声」を聞き取ることが一番重要なので、耳がその周波数帯が強調されるように作られているのは進化の結果といえます。

このグラフは一般的にフリーフィールド(Free Field)カーブと言われており、もし聴感上フラットに聴こえるイヤホン・ヘッドホンを作りたければ、わざとこのカーブのように周波数補正を施した設計にすれば、「ヘッドホンが鼓膜付近で直接鳴っているのに、あたかも前方にあるフラットなスピーカーで音楽を聴いているのと同じように聴こえる」、という理想論に基いています。

フリーフィールドカーブが世間に提唱された1970年代頃には、このような特性のヘッドホンがいくつか販売されていました。実際に人間の声などは明瞭に聞き取れるので、電話のオペレータや飛行機のパイロット、ラジオナレーターなどには役立ちますが、このカーブにはいくつかの問題があったため音楽作成や音楽鑑賞といった分野には不適切でした。

そもそも当時のヘッドホンというのはラジオや電話局のオペレーターなどの通信業務目的の製品であり、「音楽鑑賞のためにヘッドホンを使う」といったことはまだ一般的ではなかった時代です。

フリーフィールド補正の問題

ヘッドホンの特性を測定上フラットではなくフリーフィールドカーブに近づけることで、実際の生演奏と、ヘッドホンで再生された録音との区別がつかないようにする、というのが当初の目的でした。

しかしフリーフィールドカーブの問題点というのは、「音源が自分の前方にある」と想定していることです。

フリーフィールドでは、直接音以外は自分の耳に届かないと想定されています

音は鼓膜に到達するまでに顔や耳穴など色々な障害物を超えてくるので、ご存知のとおり、同じ音でも自分の前方か横か後ろか、上か下かで違って聞こえます。

ダミーヘッドに対して音源の位置を上下左右に移動させて測定したものは「頭部伝達関数(HRTF)」とも呼ばれ、たとえば補聴器や擬似サラウンド効果の研究にも役立っています。しかし、ヘッドホンで音楽鑑賞する場合は左右のステレオ録音が主流なので、音源の位置によってフリーフィールドカーブを変えたりするのは現実的ではありません(それをDSPを駆使して応用したのが擬似サラウンド効果なのですが)。

また、人間の耳は楽器の直接音のみを聴いているわけではありません。現実的な音楽鑑賞の環境というのは、反響の無い「無響室」などではなく、コンサートホールやライブハウスのように周囲の壁からの反射音が豊富な場所が主流です。

コンサートホールや教会のコンサートは豊かな残響が収録されています

スピーカーを使った音楽鑑賞でも、自宅のリスニングルームというのは無響室ではなく、反射音の豊富なリビングルームなどですので、無響室で前方からの音だけを想定したフリーフィールドカーブを基準にしてヘッドホンを作っても、おかしなことになります。

音楽の演奏というのも、さきほどのギターの例のように自分の目の前に一人の演奏者がいるだけではなく、実際は左右に展開した複数人のバンドや、大人数オーケストラなどが主流です。

音楽以外の用途でも、ラジオやTVの音声を聴いている際に、たとえば自分の目の前を自動車が横切るようなシーンがあった場合、先ほどのフリーフィールドカーブを使ったヘッドホンでは、ちょうど自動車が自分の前方を通過する時点でしか音色は正確ではなく、それ以外ではフラットではなくなります。

このような現象はステレオ音楽・音響作成の現場では致命的な問題ですし、実際にオーケストラ録音などを鑑賞する際にも、フリーフィールドカーブのヘッドホンでは違和感を感じます。

たとえば、テレビ番組の制作スタッフの場合、日中はスタジオのスピーカーを使っていますが、夜間は大音量を出せないので、ヘッドホンに切り替えるとします。その場合、スタジオスピーカーから聴こえる音と、ヘッドホンの音が異なっていたら、最終的な番組のサウンドに影響が出るので困ります。スタジオは無響室ではないですし、スピーカーは左右のステレオなので、音源は前方だけではないので、フリーフィールドカーブでは満足な整合性は得られません。

ディフューズフィールド(DF)補正

1980年代になり、フリーフィールド補正についての諸問題が浮上してきた頃に、新たに提唱されたのが、ディフューズフィールド(Diffuse Field)補正です。Diffuse Field(DF)とは日本語では拡散音場とも言われます。

ディフューズフィールド(青線)とフリーフィールド(黒線)の比較

この補正は「音は自分の前方だけではなく、拡散され、反射され、前後左右の周囲から色々とやってくる」といった考えに基づいており、ようするに無響室ではなく、風呂場のように周囲の反響だらけの環境で測定したらどう聴こえるか、といったアイデアです。

鼓膜に到達するのは前方の直接音のみではないです

言い方を変えると、ダミーヘッドに対してスピーカーを前後左右の色々な配置で測定した結果を平均化したカーブです。つまり「どの方向とも違うけど、平均で考えればだいたい合ってる」といった感じです。

ようするにDFカーブで補正されたヘッドホンを使えば、どんな状況のどんな位置で録音された音源でも、「平均的に」「だいたい」「ほぼ」正確に聴こえる、ということです。DFカーブ補正を使えば、残響などが豊富な録音でもリアルな音場空間を体験できるはずという考えです。

もちろんこのDFカーブも、測定に使用したダミーヘッドや設備によって得られる結果が若干違ってきますので、業界内でも微妙に異なるDFカーブがいくつか存在します。例えば多くのヘッドホンメーカーで使われているポピュラーなDFカーブの中には、補聴器メーカーが活用するKEMARというダミーヘッドを使って測定したKEMARカーブや、Hammershøi and Møllerの研究によるH&Mカーブなどがヘッドホン開発者に参照されています。

たとえば補聴器というのは、耳孔内に装着時に、どの距離、どの方向からの音でも、できるだけ自然で違和感なく聴こえる必要があるため、DFカーブの研究というのはとても重要な課題です。

補聴器の研究で有名なKEMARダミー(http://www.gras.dk/)

ヘッドホンの研究などで、単純に「DFカーブを使った」と言ってもどのようなカーブなのか不明瞭ですが、「H&Mカーブを使った」といえば具体的なのでわかりやすいです。

DF補正カーブと、実際のヘッドホン設計

理想的には、フリーフィールドであれDFであれ、どのような補正カーブを使ったとしても、その補正カーブに沿って周波数特性をチューニングされたヘッドホンであれば、ヘッドホンをダミーヘッドに装着して、フラットな音源を再生した時の測定グラフからそのカーブを差し引けば一直線のフラットな周波数特性になるべきです。

補正カーブを使ったヘッドホンを使えば、フラットなスピーカーと同じように聴こえるはず

たとえば、DFカーブにピッタリと沿った設計の、1000円のヘッドホンと10万円のヘッドホンがあったとしたら、どちらも音質は同じになるのでは、と考えてしまいます。

もし同じ補正カーブを使っているなら、同じ音がするはず?

しかし、現実ではそううまく行きません。実際のヘッドホンを比較試聴してみれば明確ですが、各モデルの音色は千差万別で、どれも同じ音には聴こえません。

ヘッドホンを作成するにあたって、現実問題がいくつかあります。

まず一つめは、実際どうやって理想的なDFカーブに近づけるか、ということです。ヘッドホンは振動板(ドライバ)とハウジングしかないため、そう簡単に音の特性をチューニングしたりはできません。そのため、とりあえず試作機を作って、ダミーヘッドなどで測定して、問題点を修正する、といった気の長い作業を繰り返します。

たとえば新開発のヘッドホンの最初のダミーヘッド測定で500Hzが強調されていると判明したら、それを抑えるためにハウジングに穴を開ける、ドライバ固定のネジを追加する、スポンジの材質を変えてみる、などの手探りで、測定結果を理想に近づけます。これには経験と技術が重要なので、新規メーカーのヘッドホンよりも長年マイナーチェンジを繰り返してきた定番モデルのほうが音が良かったりもします。

最近ではコンピュータ技術を駆使して、ある程度までシミュレートできますが、最終的には製品の微調整が必要ですし、ドイツの研究所で組み立てたハンドメイドの試作機と、中国の工場で大量生産した製品版の音が違う、といった問題も発生します。

次に、どんなに音を調整しても回避できない問題として、ハウジングなどの共振・共鳴があります。これは元の音源に存在しない音が発生するために、不快な歪みや篭もりなどとして感じられます。風呂場で歌うと反響がすごいですが、これをチューニングで解消しようと思っても無理なのは明白です。

共振を無くす一番の方法は、ハウジングに穴を開けて完全開放型のヘッドホンにすることですが、そうするとまず音漏れが酷いですし、開放型というのは一般的にサウンドがスカスカで低音不足のヘッドホンが多いです。

ハウジング共鳴というのは低域を増幅させる効果もあるので(風呂場のカラオケと同じ原理です。)、完全に取り除くとドライバ単体だけでは低音は出し切れないので、どの程度ハウジングによる共鳴を残すかのサジ加減が肝心です。あまり共鳴が多いと音楽のタイミングやスピード感が台無しになってしまうので、この判断も経験と技術が要求されます。

どんなに頑張っても、歪みの多い安価なドライバや、プラスチックのハウジングでは理想的な音響は得られないため、高価なヘッドホンになるにつれて高級な素材や複数の材料を組み合わせて、理想の特性を追求することが可能になります。

紙コップとセロテープを使ってトランペットの音を出せ、と言われても極めて困難なのと同じように、1000円と10万円のヘッドホンでは追求できる限界が変わってきます。とはいっても、10万円のヘッドホンでも音質チューニングに失敗している例は多くあります。

装着感

もうひとつ考慮する必要があるのが、装着感です。先ほど理想のDFカーブを作成する際にはダミーヘッドを使い、鼓膜の位置で音楽がどう聴こえるのかという測定方法でした。つまりヘッドホンが鼓膜の間近で鳴っている場合では、そのままDFカーブに合わせてチューニングをすればフラットに聴こえますが、実際のイヤホン・ヘッドホンは、各モデルごとに鼓膜からドライバまでの位置に大きな差があります。また、開放型か、密閉型かなどの違いもあります。

ドライバから鼓膜への距離が全然違います

大型のアラウンドイヤーヘッドホンではドライバから耳穴まで数cm離れていますし、カナル型のIEMでは耳穴の奥深く、鼓膜の間近まで挿入します。これらをどれも同じDFカーブで補正しても良いのでしょうか?

さらに、耳穴は開放状態か、塞がれているかで特性が違います。冒頭のフリーフィールドカーブで3kHz付近が強調されるのは耳穴が開放されている場合ですが、もしイヤホンなどで耳穴が密閉されていたら、ピークが5kHz付近に移動します。耳孔は長いチューブ形状なので、共振点が変わるのは当然です。

また、ヘッドホンの場合は、ドライバが耳穴に対して前後にずれていると、それだけで聴こえる音色が変わるのはヘッドホンユーザーの悩みの種です。イヤーパッドの形状をちゃんと設計して、耳穴に対して動きまわらないようにしたり、隙間ができないようにすることで音漏れや乱れを防ぐことはできます。また、ドライバの直径が大きくなるほど出音面が広くなるので、装着位置による音の乱れが少なくなります。

例えばゼンハイザーのHD650は40mmという小型のドライバを使っているため、ハウジングの装着位置によってかなり音色が変わります。ソニーのMDR-Z7は70mmドライバなので許容範囲が広いです。そういった意味では、STAXやAudez'eなどの平面駆動タイプのヘッドホンは広い平面から音が出るため(多少の偏差はありますが)装着位置をあまり気にしなくても良いという利点があります。

この現象を逆手に取ったヘッドホンもいくつか存在します。例えばドライバをあえて耳穴より前で傾斜させて配置することによって「前方定位」を実現するヘッドホンは多いですし、UltrasoneのS-Logicシステムのように、あえてドライバを耳穴より下に配置することで擬似的な拡散音場が得られるといった個性的なアイデアもあります。

こういった高度なヘッドホン設計は、蓄積された技術やノウハウ、そして正確なレファレンススピーカーやダミーヘッドなどを活用した計測機器が必需品なので、アマチュアや新参のガレージメーカーが経験無しに簡単に到達できるレベルではありません。

ダミーヘッド測定などと言うと、「そんなものに頼らなくても、音の良いヘッドホンは作れる」、と反論するメーカーももちろん存在しますが、聴感上の判断以前に、歪み率や群遅延などの問題は測定でしか対策できない場合が多いです。

心地よい音色を作り上げるのは結構ですが、まずは最低限のノイズや歪み率などのスペックをクリアすることが大前提です。せっかく歪み率0.001%の超高性能ヘッドホンアンプを買ったのに、使用しているヘッドホンの歪み率が5%、なんてことも多々あります。

製作者の感性のみで創りだされた商品は興味深いですが、その製作者の音楽趣味がハードロックとEDMのみだったため、クラシックのピアノ・ソロを聴いたら現実(生演奏)とかけ離れている、なんて商品も存在するのが、イヤホン・ヘッドホン業界の面白い部分でもあります。

具体的にどのメーカーというわけではありませんが、金メッキ・無垢の金属削り出しなど、豪勢なハウジングをあしらった芸術的な高額商品や、排他的で持論を強調するメーカーはこのような傾向が強いです(オーディオショウなどでも、ゼンハイザーやベイヤーなど一流企業はお互いを尊敬しあっています)。

DF補正のヘッドホン

1980年代にDFカーブが定着した頃に、多くのヘッドホンメーカーからDFカーブに追従した製品が登場しました。主にTVや音楽制作スタジオで使われる、スタジオモニターヘッドホンと言われている製品です。

DFカーブに忠実なメーカーというと、たとえばベイヤーダイナミックがあります。DT880など当時のモニターヘッドホンは、多くの録音スタジオなどで活用されました。またAKGもK240DFという、まさにDF補正に適合したヘッドホンを発売して、ドイツやオーストリアなどのラジオ局で正式採用されました。
DFカーブ補正スタジオモニターの代名詞、K240DFと、DT880

K240DFにはDIFFUSFELD ENTZERRT(DF補正)と書いてあります

これらのラジオ・TVスタジオでは、ヘッドホンを社内採用する際に、音質が良いか悪いか以前に、どれだけ忠実にDFカーブなどの基準に沿っているかも重要な要素になります。別のヘッドホンに買い換えたせいで番組の音がぜんぜん違ったら困りますから、社内で統一したヘッドホンを100個とか同時購入するので、入念な検討を行います。

では、完璧にDFカーブに追従しているイヤホン・ヘッドホンというのは存在するのでしょうか?これまで測定された商品の中で一番DFカーブに近いのは、Etymotic ResearchのER-4 (ER-4B)だと思います。

Etymotic ER-4

Etymotic Research ER-4はバランスド・アーマチュア(BA)単発のカナル型インイヤー・モニター(IEM)で、この類のIEMの原点とも言うべき非常に重要な製品です。

そもそもEtymotic Researchという会社自体が補聴器を作っているメーカーで、KEMARダミーヘッドなどを多いに活用していたため、スタジオモニター用のイヤホンER-4を開発するにあたり、BAドライバの特性やカナル形状の組み合わせによって、ほぼ理想的なDFカーブを得ることを至高の目的としました。

また、当時主流の一般的なイヤホンとは違い、カナル型で耳穴の奥まで挿入する形状なので、音が直接鼓膜に届くため、耳穴形状の個人差を気にしなくても良いというメリットがあります。(装着感はかなり不快なのですが・・)。

DF補正の問題

ER-4を筆頭とするDFカーブ補正のイヤホン・ヘッドホンを利用することで、聴感上ほぼ理想的なフラット特性を達成することができた、と言いたいところですが、ここでさらなる問題が浮上してきました。

これらDFカーブ補正ヘッドホンが市場に投入されてから数年後、利用している多くのユーザーから、「聴き疲れする」「高音が強調されすぎる」「低域がスカスカ」などといった不満がでてきました。

ほぼ理想的なフラット特性を再現できるヘッドホンのはずなのに、なぜ高音寄りに聴こえるのでしょうか?多くのヘッドホンメーカーがリスニングテストなどで検証した結果、原因は意外なところにありました。

そもそもKEMARなどのダミーヘッドを利用したDFカーブを作成する場合の大前提は、フラットなスピーカーを使用して、無限に反響する空間、つまり色々な位置から発せられる音を平均化した測定だということです。

実際の音楽録音スタジオがそのような理想的空間であれば、DFカーブを使うことは正しいです。具体的には、たとえば多くのレコーディング・スタジオで録音エンジニアが使っているスピーカーは完璧にフラットな特性なのでしょうか?ミキシングルームは理想的な音響空間でしょうか?

豪華なセットアップのアビイロード・スタジオ
一般的なホームスタジオ

ヘッドホンメーカーがこれらの情報を調査した結果、実際の音楽作成現場では、ほとんどの場合、フラットよりも高域がかなり抑えられた環境でした。これは使用されているモニタースピーカーの特性や配置方法によるもの(壁に近いと低音が増します)でもありますし、またエンジニアが仕事中に聴き疲れしないように意図的に「ウォームな」出音環境を好んでいる、といった事情もあります。

ラジオやTV業界と違って、明確な基準の無いプライベートな音楽レコーディング・スタジオでは、主任エンジニアの意見がすべてです。たとえスピーカーを新調した際にフラットになるようにマイクで測定したとしても、その後、数年間同じ条件で運用できているでしょうか?

このような結果から、Etymotic Researchなど各社はあえてDF補正から逸脱して、高域を−3dBや−6dBなど落としこんだ音作りに変えはじめました。(例:ER-4S)

また、この時期からヘッドホンやイヤホンが音楽鑑賞に有用だということが世間一般に広まってきた頃なので、多くの音楽鑑賞用ヘッドホンが市場に投入されました。ちょうど「DFカーブはあまりアテにならない」、という風潮があったため、各メーカーごとに独自基準で社内規格の「補正カーブ」を作りはじめた時期でもあります。

ヘッドホンの測定グラフを比較する際には、たとえばinnerfidelity.comやgoldenears.netなどの大手レビューサイトが有名ですが、Headroom(headphone.com)などのヘッドホン販売サイトでも、実際に販売しているヘッドホンの一部を測定して掲示してあります。なかでも、幾つかのグラフを重ねて比較できる「Build a Graph」というページは面白いです。(http://www.headphone.com/pages/build-a-graph)。

肝心なのは、これらの測定グラフが正確かどうかではなく、同条件で各モデルを比較することで、それぞれの個性がおおよそ把握できるという点です。


DFに近いHD600(青)から、HD650(赤)では高域を抑えて低域を増強している(HeadRoomより)

AKG、ベイヤー、ゼンハイザーなどのモニターヘッドホンはほぼDFに近い

ベイヤーと日本のソニー、オーテクなどを比べるとかなり違うことがわかる

HeadRoomのグラフで遊んでいるととても楽しいのですが、たとえばゼンハイザーHD600はほぼDF補正に合わせて設計されているのですが、後継機のHD650は比較的緩やかに高域が落ちていく音作りになっています。その結果、聴感上低域が豊かで高域が抑えられたリスニング向けの音色に仕上がっています。

スタジオヘッドホン定番のAKG K240、ベイヤーダイナミックDT880、そして近年の定番と言えるゼンハイザーHD800を比べてみるど、どれも周波数的にはDF補正に非常に近いことが分かります。つまり意図的にスタジオ用途に追従した音質設計だということです。各モデルのメーカーや年式は異なっても、基本的にDFに忠実なのは感心しますね。

また、ソニーやオーディオテクニカなど日本製のヘッドホンは、たとえ業務用のスタジオモニターでも基本的にDF補正から逸脱している製品が多く、各メーカーごとに特徴的な補正カーブを使用しています。そもそもDFカーブ自体がノイマンなどドイツ主体の規格だったため、日本のメーカーが独自基準を考案していることは不思議ではありません。

たとえばソニーの場合、10kHzくらいの超高周波に大きなピークがある製品が多いです。定番のMDR-900STはまさにそうですし、MDR-EX1000やMDR-Z1000など最近のモニター系イヤホン・ヘッドホンもそのようなソニー独特のチューニングになっています。これはつまり破裂音や刺激音などのノイズに含まれる超高周波は聞き取りやすいということです。

少なくともスタジオの定番として活用されているヘッドホンの音作りによって、最終的な音楽作成の音色に影響してくるといったことは現実に起こっていると思います。

また、今回あえて画像は載せませんでしたが、Headroomのサイトなどでチープなストリート系ヘッドホンのグラフを見てみると、どれだけDF補正から逸脱しているか確認できて笑えてしまいます。それらの音質が「悪い」のではなく、一部のDF系モニターヘッドホン以外は、各メーカーごとの音作りの基準が大幅に異なるということです。

リスニング向けの補正カーブ

90年代に入ると、多くの一流ヘッドホンメーカーはDF補正に基本的に忠実でありながら、リスニング向けに高域を落として聴きやすくしたりなど、独自のチューニングを施していました。

AKG K701とゼンハイザーHD650は歴史的な銘器です

また、この時期からハウジングやドライバの研究が一気に進展して、AKG K701やゼンハイザーHD650など、各メーカーから非常に高性能なヘッドホンが登場しました。それまでのプラスチックハウジングに紙製ドライバ、ビニール製イヤパッドなどから、新開発の鋳造ハウジングや複合ポリマーコーン、コンピュータ・シミュレーションによるドライバ設計など、最先端の技術がヘッドホンに取り入れられはじめた時代です。

もうひとつの大きな変化は、ポータブルCDプレーヤなどの普及により屋外など騒音の多い環境でイヤホン・ヘッドホンが使われることが増えてきたことで、室内だけではなくポータブル用途での高音質が要求されるようになりました。

騒音が多いポータブル環境の場合、密閉型ハウジングやカナル型IEMを使用することにより、高音域のノイズは概ね遮音できますが、自動車や電車などの「ブロロロロ」「ゴトンゴトン」といった低音ノイズは遮音できません。(まだアクティブノイズキャンセリングが普及する前の時代です)。そのため、当時の一般的なヘッドホンでは低域が埋もれて十分に聞き取れないため、ストリートユース向けに低域を過剰にブーストした製品が出始めたのもこの時期です。

現代でもこのトレンドは続いており、いわゆるDF補正に追従したスタジオモニターヘッドホンも存在しますが、アップルストアなどで売られているストリート向けのイヤホン・ヘッドホンでは、どんなに高価な商品でも、DFカーブと比較して中低域が+10、若しくは+20dBほどまでブーストされている製品が多いです。そしてこのような音作りが一般的な消費者には「良い音」として認識されています。たしかに、低音が強調されているとパワフルなサウンドに圧倒されます。

これまで自社スタジオモニターに追従する音作りを基準としてきたソニーなどでも、最近のコンシューマ向け製品では、たとえばMDR-1RシリーズやMDR-Z7、各種XBAシリーズのIEMなどは、どれもDF補正に近いカーブから、500Hz以下をピッタリ+10dBブーストしたような音作りに統一しています。こういった取り組みが、各メーカーごとのサウンドスタイルを定義づける重要な要素になっています。

理想の「フラット」特性

今回の話の原点に戻りますが、では理想の「フラット」特性を持ったヘッドホンというのは存在するのでしょうか?

オーディオショウなどでベイヤーダイナミックやゼンハイザーのスタッフがよく口にしていたのは、「設計上の理想的なフラット」と「ユーザーが求めているフラット」の定義が異なるため、時代のトレンドに合わせて音作りをしないと商品が売れない、ということです。

ひとつ面白い例としては、AKGやJBLなどのブランドを所有する、ハーマン・グループの試みです。ハーマン・グループの技術者ショーン・オリーヴはここ数年間、米AESなど色々なオーディオ業界学会イベントなどで、とても有意義な実験を行っていました。(seanolive.blogspot.com)。

オリーヴ氏の実験は非常に興味深いもので、彼のアイデアは、低価格なゼンハイザー HD518と、高価格なAudez'e LCD2という2つのヘッドホンを使い(なぜ自社のAKGを使わなかったのは不明ですが)、それぞれに複数の切り替え可能なイコライザ補正を行い、ブラインドテストで一体どの補正カーブが一番「好ましい音質か」多くのユーザーの意見を統計する、というものです。

選択できる補正カーブは:補正カーブ無し(ダミーヘッド測定上フラット)、Hammershøi and Møllerなど3種類のDF補正、フリーフィールド補正、そしてJBL開発室のレファレンス・リスニング・ルームを基準にした、2種類の自社製補正カーブ(JBL・ハーマン・ターゲットカーブと名づけています)の合計7種類の補正カーブをシミュレートしたものを選べるようになっています。


一般的なDF(青)とハーマン・ターゲット(黒)

一般的なDFカーブと比較して、JBLハーマンの自社製カーブは低域が豊かで高域が抑えられていることがわかります。

オーディオショウでリスナーのブラインドテスト結果を統計したところ、自画自賛になりますが、案の定、自社製のJBLハーマンターゲットカーブが一番好ましい音質だということらしいです。

この研究の意義は、どれの補正が「フラットか」どうかは重要ではなく、ハーマン・グループの技術者オリーヴ氏の論点は、「完璧な無響室を基準としたフリーフィールド補正」、「無限の反響を基準としたディフューズフィールド(DF)補正」、これらのどちらも理想的なリスニングルームとはかけ離れており、リスニングには好ましくない、というもっともな主張です。

自社製JBLスピーカーのリスニングテストに使用しているレファレンス・ルームの特性をベースに作成したハーマン・ターゲットカーブを使って、自社製ヘッドホンの特性をチューニングするのが最善の選択だ、ということです。

このような解釈は製品開発という点では納得できますし、JBLスピーカーとAKGヘッドホンという、どちらも業界トップクラスの名門ブランドを手中に収めているハーマン・グループだからこそ可能な結論とも言えます。また、ソニーなどの大手メーカーも自社内で基準とするカーブ(例えばソニー録音スタジオのスピーカーの音)があるからこそ、ヘッドホンの音作りの方向性が明確になります。

このような音作りに対する「レファレンス」的な基準や測定方法が無いメーカーは、試行錯誤で奇跡的にネットレビューなどで好評なサウンドのヘッドホンを開発できるかもしれませんが、将来的に統一された製品バリエーションを展開することは不可能で、すべてのモデルがバラバラの音色になってしまいます。

オリーヴ氏はこの実験結果をAESの論文や、自身のブログ(http://seanolive.blogspot.com/)などで極めてオープンに公表しているため多くの注目を浴びており、「ハーマン・ターゲットカーブ」はDF補正に続く新たな定番になるかもしれません。

フラットの定義

ここまで、ヘッドホンというのは根本的に「フラット」な特性ではなく、各ヘッドホンメーカーが独自の解釈で色々な補正カーブを採用していることを解説しました。

最後に、もうひとつ重要なポイントを取り上げます。それはヘッドホンのレビューにおいて、「フラット」という定義はどのように解釈されているか、という問題です。

自分自身の経験を元に「このヘッドホンはフラットだ」と評価するのは大いに結構ですし、意見としては非常に参考になります。しかしグラフや測定を使ったレビューでは実際どうでしょうか?

日曜大工で自作した、人間の耳に似ても似つかない構造のダミーヘッド・マイクを使って測定したグラフを掲載して、「このヘッドホンはフラットだ」などと言うのはもちろん論外ですが、大手雑誌やレビューサイトなどで掲載しているグラフですら整合性が取れていないのは問題です。

高価なノイマンやKEMARから、自作品まで、ダミーヘッドといっても千差万別です

実は気づいていない人が多いのですが、レビュー記事などでグラフを記載していたとしても、それが生の測定グラフであることは極めて稀です。

どのレビューも、何らかの補正カーブを差し引いた状態のグラフを使い、周波数特性がフラットかどうか検討しています。たとえばDF補正カーブを採用しているレビューサイトであれば、DF補正を差し引いたグラフを掲示して、それが低音から高音まで一直線に近ければ、フラットなヘッドホンだ、という結論になります。(つまり、自分が信用している補正カーブにどれだけ近いか、ということです)。

同じ測定機器を使っていても、レビューごとにグラフは変わります

これはヘッドホンメーカーの商品説明やパッケージに記載されているグラフでも同じです。補正していない生の周波数グラフを見たら、明らかにフラットではないため、消費者には「音が悪く」見えるからという配慮なのかもしれません。

メーカーや雑誌、ウェブレビューのすべてがDFなどの統一した補正カーブを採用していれば事態はさほど問題では無いのですが、実状は各レビュアーがそれぞれ独断に基いて、個人的に採用した補正カーブを使用しています。

つまり同じヘッドホンを同じダミーヘッドで測定したグラフでも、2つのレビューでは全く違う補正カーブを使って、異なるグラフとして掲示されます。それを見た読者に「これはフラットだ」と思わせるのは不親切だと思います。

問題は、レビューでどの補正カーブを使えばいいのかという明確な基準が無いことです。例えばネットで著名なInner FidelityやGolden Earsなどのヘッドホンレビューサイトは、それぞれ異なる補正カーブを使ってグラフを作成しており、どちらも標準的なDF補正ではない独自解釈のカーブです。(もちろん未補正の生データもあわせて掲載されています)。また、多くのレビューサイトや雑誌記事などでは、一体どんな補正カーブを使ったのか明記していないケースがほとんどです。

全員DFカーブを使え、というのは言い過ぎですが、少なくともダミーヘッドの機種など測定条件と、補正無しの生の測定データをまず表示した上で、自身が選択した補正カーブを通したグラフも同時に掲載することが一番好ましいです。

しかし、生のグラフを掲載したところで、それを見た人が補正カーブについて理解が無ければ、「全然フラットじゃない」と思われてしまうのが悩みの種です。

まとめ

これまでヘッドホン測定の初歩的な部分を長々と書きとめましたが、実際にヘッドホンを設計や評価する際には、周波数特性以外にも、インパルス応答や矩形波応答、ウォーターフォールグラフなど、時間軸方向において、さらに奥が深い世界があります。これらについてはまたいつか機会があったら紹介しようかと思います。

現実問題として、測定結果がパーフェクトなヘッドホンというのも、万能レファレンス機としては良いものですが、逆にヘンな個性があるモデルのほうが音色を気に入ったりします。(そういうのは大抵、飽きが早かったりするのですが・・)。

また、科学の粋を全力投入したようなハイテクヘッドホンが必ずしも良いかというと、Gradoのように木材をくりぬいた日曜大工のようなヘッドホンの音が素晴らしかったり、KOSS Porta Proのような5,000円のヘッドホンが絶妙なチューニングだったりします。

科学や技術の世界でありながら、個性豊かで予測不能な芸術的一面もあるのがヘッドホンの面白いところです。